エッセイ詩歌
短歌「俺たちは風」/エッセイ「トップギア」
連作八首「俺たちは風」
インディゴが濃くなつてゆく西伊豆の空を切り裂く俺たちは風
障害者手帳、エピペン、水色の薬袋を吹き飛ばしたし
いさなとりマリンタウンに飛来せし海鵜と俺の南下競争
トップギア マグマの大地蹴り上げてまるい地球の果てへと急ぐ
あこがれは叶はぬままに翠影を青春の日々として走れり
変はらない日々は二人の背に預け80km/hで明日を目指す
片親は、両性愛は、発達は、いゝから、今日を忘れずにゐて。
同じ道連なり走る俺たちのそれぞれの過去それぞれの生
エッセイ「トップギア」
クラッチを切って一つ重いギアに入れ、アクセルをひねれば景色が飛ぶように後ろへすぎてゆく。柔らかな白い綿雲が、青くどこまでも輝く大海原が、六月特有の爽やかに香る翠影が。これが、きっと自由なのかもしれない、なんて考えてしまう。そんな開放感だ。
自由なんていう曖昧なものを、曖昧に考える曖昧な年齢の僕ら三人は、東京と名古屋と静岡市内から合流して、伊豆一周のツーリングに来ていた。各地を転々と観光しながら、一泊二日で右回りに周る予定だった。
僕は伊豆が好きだ。伊豆っていうのはいい。魚が美味い。生もいいし、焼いても煮てもいい。わさびも旨いし、おまけに猪肉まで絶品だ。そして何より、温泉もいい。温泉はいい。温泉がいい。極楽浄土とはまさにここ。
「いず」って名前もいいよなあ。地面から温泉が「出ずる」かららしいけど、そんな由来も可愛らしい。太平洋に突き出て、ちょっとでしゃばり。僕らはその可愛くてちょっとでしゃばりなシェイプを、丁寧に丁寧になぞって走る。
海岸線はぐねぐねとしたつづら折れが幾重にも続いて、僕らはそのたびに体を傾けて風を切る。まだ二十一歳にして、何者でもない透明な僕らは、伊豆を吹く透き通った風によく馴染む。人馬一体となってゆけば、行く道の全てが夏の往路だ。
「サイッッコーーーー!!!!」
インカム越しに、前をゆく友人の絶叫が聞こえる。左を見れば、これでもかというほど蒼い海が広がっている。それは初夏の眩い太陽光を波間に散らして、キラキラキラとどこまでも遠くまで続いているようだった。その手前には白波が静かに打ち寄せる純白に輝く美しい砂浜が。右を見れば山肌に濃緑と新緑が入り乱れ、さらさらとそよいでいる。
僕らはその中を、一陣の風のごとく走ってゆく。
僕の愛車は真白いベスパだ。しかも五十年近く前の。そう、あの『ローマの休日』でオードリー・ヘプバーンが乗っていたあれ。『さらば青春の光』で主人公のジミーが乗っていたあれ。青春の象徴。美しいモノコックフレームの外装は、まさに風を纏うようなシルエットだ。
往年のイタリアの名車も、伊豆を走ればまた似合う。蒼と翠のコントラストに、白が美しく映えている。ツーストエンジン特有の軽快なエキゾーストノートを奏でて、マグマの大地を蹴り上げてゆく。
とてつもなく、自由だ。これまでの人生のかつてないほど、僕らは圧倒的な自由だ。どこへでも行ける、何にだってなれる。本州からさえはみ出したこの場所を、この道を、僕らは無限に飛んで行ける。前を行く二人の友人の背中にも、なんだか純白の翼が見えるようだ。
もしかしたら、そんな感覚はきっと、若さ特有のものなのかもしれない。世間知らずの甘ちゃんだと嗤う人もいるかもしれない。まあ、そうか。でも。だけれど、それでいいじゃないか、と僕は思う。僕らはきっといつだって、こんな景色を探して生きていくのだろうから。歳を経て、曖昧なものが一つずつ曖昧ではなくなっていって、暮らしが確立されて、それで、それで。それでもきっと探すよ、こんな一瞬の青春の煌めきを。
「なあ、またやろうぜ、こんなツーリング。日本各地の突き出てる半島をさ、ぐるりとよ。」
思わず零れた俺の感傷的なぼやきに、友人は笑って返す。
「おい、まだ早えよ! まあ、けどそうだな、毎年行けたらいいよな。」
インカムから伝わる少しくぐもった声が、楽しそうにヘルメットの中に響いた。
つられてふふっと笑って、そして僕は、二人に追いつくためにギアをトップへと入れた。まだまだこれから先もずっと続いてゆく、自由への日々を走り抜くために。
執筆者
文芸学科2年 かぱぴー(ペンネーム)
この作品は2023年度エッセイ研究Ⅱの実習で制作されました。