創作物

エッセイ

世界に彩りをそえて

世界の彩度が落ちている。そう感じ始めたのは、最近のことだ。正確には、私から見える世界の彩度だが。

お昼時。空いた電車内で、ふとスマホから顔を上げると、小学二、三年生くらいの男の子が、車窓を流れる景色に釘づけになっている。その小さな背中を見つめながら、自分が小学生だった頃の感覚を思い出した。

自転車に乗って、初めて学区外の公園に行った時のワクワク感。いつもの公園から五分ほどでつく道のりが、私にとっては大きな冒険だった。

学校からの帰り道、白線の下にはサメが泳いでいた。白線が途切れてしまう時は「息を止めれば大丈夫ってことにしよう」と、都合のいいルールをいくつも増やしていった。

空には、いつも綿菓子や動物が浮いていた。「あの雲、うさぎに似ているね」と、最後に友達と笑い合ったのはいつだっただろう。

当時は、お金なんてなくても、スマホなんてなくても、歩きやすい靴と、友達がいれば、どこへでも、どこまでも行けた。いつの間にか忘れてしまっていた感覚に、大人になってしまったことを自覚させられる。

なんとなく、スマホの電源を落としてから電車を降りた。今にも破裂しそうな花の蕾に、昨日の雨が残した小さな水溜り。頬を撫でる風は、微かに花の香りを含んでいる。白線の上をゆっくりと歩きながら空を見上げれば、真っ白な雲が気持ちよさそうに空を漂っていた。

毎日見ているはずの景色が、本当は見えていなかった。「日常」という言葉に溶け込ませてしまっていた景色は、かつての私にとっては、宝物であり、特別だった。失いかけていた感覚を取り戻したとき、世界は、鮮やかな彩りとなって私の目の前に再び現れた。

あの頃とは違って、気を抜けば、また元の彩度に戻ってしまうけれど。時折、思い出しては、この感覚に浸りたいと、肺いっぱいに柔い風を吸い込んだ。

執筆者

文芸学科3年 中久喜 葵衣

この作品は2023年度エッセイ研究Ⅰの実習で制作されました。