エッセイ
卵と右手と左手
今日もまた朝がきた。時計によると6時まであと10分らしい。寝起きに冷えたコーラでも身体に入れてみようかと、下の階へ降りていった。
「おはよう」
ダスキンのおかげで、先日一命を取りとめたエアコンがもうすでに働かされていた。忙しそうに大きな息を吐き続けているが、気分はただただ暑い。部屋に電気はついていない。カーテンは全開で、早朝だというのに暗くは感じなかった。
同居人が、何かの面接中のように、背もたれに背中をつけずにカチャカチャと卵を溶いている。私が買ってきた新しい箸と、毎日コンフレークを食べている器からは、余所行きの甲高い音が飛び出していた。回転する卵の音まで聞こえてきそうである。卵かけご飯か。
今朝も襟がボロボロになりかけの、お気に入りのミッキーマウスのTシャツを着ていた。昨日の夜も着ていたのだから、当然といえば当然だ。でも、今朝は襟周りがやたらと濡れている。たぶん、おそらくヨダレだろう。彼女は眠っている間、着ているものを噛む癖がある。寝ているからやめられないと、いつも言い訳をする。だから襟は破けて、日々残念な姿になっていく。ヨレヨレのビリビリなのでボロボロというわけだ。
普段はろくにご飯も自分でよそわないのに、自力で卵を溶いていることに驚いた。というのも、彼女は私と居て、今まで自分で卵を溶いたことがない。白身と黄身が分離している状態が気持ち悪いからだと言う。私はお箸を少し開いて混ぜる。そうすると白身のあの感じは、黄身と上手く混ざって均一な溶き卵となる。どうもその具合がいいらしい。
彼女は、長いとは言えない指を精一杯伸ばして、箸を目一杯開いていた。回す速度がものすごい。白身問題は一人の人間にとっての大問題と見える。私は白身のプルッとした感じは嫌いではないのに、なぜだかいつもしっかりとかき混ぜてしまうのだ。
卵の回転はまだまだ続く。横に置かれた、もうすっかり温くなっていそうな麦茶の残りも揺れている。彼女は私がやるように箸を広げるだけではなく、手に持った器の角度を、中身がちょっとこぼれてしまうほどに傾け、急に反対に回すなど、独自のアレンジを加えていた。
その結果、今日の卵には、白くて透明な小さい粒が光っていた。
そう言えば、同居人は左利きなのに、右手でかき混ぜていたのが気になって聞いてみた。
「待ちきれないくらいお腹が空いていたんだけど、今さら自分で卵を混ぜるのが嫌でさ」
えっ、そうか。そうなのか。右手と左手にそんな使い分けがあったのか。私には全く思いつかなかったことだ。反対の手を使えば自分ではなくなる。彼女に知恵がないわけではない。今度、誰かの手を借りたくなったとき、自分も試してみようと思った。
私の頭の中に気づいたのか気づいてないのか、もう食べ終えてしまった彼女は、ピンクと赤の生気たっぷりな唇を湿らせて、少し落ち着いた腹を撫でながら笑っている。
「ねぇ、どうだった?」
執筆者
文芸学科3年 森 紀久
この作品は2022年度エッセイ研究Iの実習で制作されました。