エッセイ
足跡
目を瞑って、耳を研ぎ澄ます。
小川を流れる水の音はどうしてこんなにも落ち着くのだろうか。心の邪気がふっ飛んでいくのを感じる。ゆっくりと目を開けた。浅い水の表面は規則正しく流れていく。いつもよりも少し早起きして、近所を散歩している。“早起き” と言っても普段、朝か昼か判断がつかないような時間に起きるような人間の早起きだ。
今日わたしは父の地元に来た。ここは絵に描いたような田舎だ。果てしなく田んぼが広がっており、深緑の大きな山が見える。小川に小さな石を投げ込んでみたが、その波動は規則正しく流れに飲み込まれていった。
「ほら、そろそろ行くよ」
父の姉、わたしにとっては叔母にあたる女性の声で、父と三人で車に乗り込んだ。“絵に描いたような田舎”といってもまったく何もないわけではない。十分ほど車を走らせると、駐車場の大きい飲食チェーン店が軒並み建っている。
「ここの果実園で昔、あきひろちゃんが葡萄盗んだらたまたま先生に見つかったんだよ」
「そんなことあったねえ、その時私笑いが止まらなくって」
当時に戻ったように盛り上がるふたりの懐古談は温度を上げ続けていたので、わたしは窓の外を眺めた。
そういえば、どうして父は地元の友達の名前を呼ぶとき、男性でも”ちゃん”を付けるのだろうか。
途中、町全体を見下ろしているくらい大きな観音像が見えた。幼い頃は一生懸命お願い事をしていたのを思い出した。堂々と拝むのはなんだか恥ずかしかったので、隣に座る叔母から見えないようにそっと両手を合わせた。
それから急斜面を登って山の上にある祖父と祖母が眠るお寺に到着した。
「これ、近所のご老人たち登れるのかな」
父がそう言った。五年ぶりに訪れたが相変わらずここの階段はかなり急だ。祖父母のお墓はさらに階段を登ったところにある。線香を添え、手を合わせて、大学に通っていることや毎日楽しく過ごしていることを報告した。父はわたしより五秒ほど長く手を合わせていた。まだ七月が始まったばかりなのに蝉の鳴き声が聞こえてくる。深呼吸をして、遠くの雲を見つめた。
執筆者
文芸学科3年 緒方莉央
この作品は2022年度エッセイ研究Iの実習で制作されました。