創作物

小説

青褐の舌

 いつか聞いた、さらさらと浅い小川の流れる音が、ずっと耳の奥に残っている。

 ついに完成した生涯いちの傑作を前に、今日はとりわけ敬虔な気持ちでそのせせらぎに感じ入った。この先死ぬまでどれだけ絵を描き続けたとしても、今日の一枚にかなう作品が生まれることはないだろう。僕の絵に、僕の筆が塗りつけた何種類もの僕の色に、彼女は永遠にまみれていられるのだ。数日間ずっと握り続けていた絵筆を床に落として、おいしいかい、と僕はたずねる。額縁の中心で、彼女もきっと幸せそうに笑った。

 

 レンタル画廊へなけなしの金をはたき、開いた個展も最終日を迎えた。十万円近く払って、七日間。今日までで画廊を訪れた人間の数は、両手の指で足りるほどだ。その半数が自分の知り合いだったから、一般の客はほとんど来ていないも同然だった。宗一郎は入り口にぼうっと立ち、知人のひとりが初日に差し入れた個展祝いの花を眺める。少しも客足の見えないまま、在廊を続けて優に数時間が経っていた。予定より早いが、もう搬出作業を始めてしまおうかと考える。少しでも世間に見つかることを期待して開いてみた初個展だったが、実際に何か得られたようにはついぞ思えなかった。

 入り口付近のものから順に、キャンバスをフックから外していく。自分の作品のよさは自分が信じていればいいと、言い聞かせてみても気分は晴れない。十五年前、絵を描き始めた時からずっと、宗一郎は他人へ評価を求めることをやめられないたちだった。好評や不評の全てにいつも振り回され、また評価を貰えるようにと見苦しく依存してしまう。傑作だと思っていたはずの作品も、周囲がいいと言わなければ途端に心が疑い出すのだ。向いていないのだと分かっていながら、筆を折る決心もつかずにぐずぐずした生活を続けていた。壁から外して梱包するという作業を黙々と繰り返し、画廊は次第に元の殺風景な空間を取り戻していく。最後の作品を回収しようと宗一郎が手元から顔を上げた瞬間、紺のプリーツスカートが音もなく視界を横切った。

 夏仕様のセーラー服を着た、長い黒髪の少女だった。いつの間に入ってきたのか、こちらには目もくれず興味深げに周囲を見回している。やがて展示されたままだった最後の一枚を見つけると、少女は足早に歩み寄った途端じっと動かなくなった。食い入るようにキャンバスへ見入るその後ろ姿は、今日までに画廊を訪れた人間の誰も見せなかったものだった。熱心な様子に声をかけるのもためらわれて、宗一郎はつやのある髪の真っ直ぐな揺らぎをただ目で追いかける。ふと少女の右腕がふらふらと上がって、病的に細い人差し指がキャンバスへ吸い寄せられた。

「あっ。ちょっと君、いけないよ」

 絵具の盛り上がりへ指が触れてしまう前に、慌てて背後から声をかける。少女は緩慢に振り返って、今宗一郎の存在を認めたように一度瞬きをした。綺麗な顔立ちだった。肌は髪色と対照的に生白く、首も手足も妙に痩せている。感情の読み取りづらい瞳の奥の、やけに光を通さない黒に少しだけたじろいだ。「ごめんなさい」と言って、少女はにこりと微笑みを浮かべる。

「思わず手が伸びてしまったの。この絵が、あんまりおいしそうだから」

 おいしそう。およそ相応しくない称賛を受けて、思わずキャンバスの方へ視線を移す。『汚泥』という題名のついたこの作品には、食欲をそそる色などひとつも使われていない。叩きつけるように塗り重ねられた茶褐色、黒色、黄土色。うだつの上がらない人生を憂い、精神的に参っていた時に描いたものだった。

「これを、おいしそうだと思うのか?」

「ええ。指の先にすくい取って、味を確かめたくなるくらい。いいじゃない、芸術って、どう受け取ろうと自由なんでしょう」

 少女はふと黙って、宗一郎の全身を頭から爪先まで眺めた。ひどく線の細い虚弱そうな少女であるはずなのに、猛禽にねめつけられているような感覚が背筋を走る。やがて少女はああ、とかすかに呟き、「あなたがこれを描いたのね」と真っ黒い両眼を細めた。

「ねえ、他にはどんな絵を描くの? あなたの作品に興味があるわ。だって私、こんなにもおいしそうな絵を見たのは初めてなの」

 薄く開かれた少女の口の、暗い空洞の中にちらりと赤い舌がのぞく。少女は名前を瞳(とう)子(こ)といった。

 

 あの日、もっと作品を見たいと言った瞳子に、宗一郎がアトリエの場所を教えたのはほんの思いつきだった。彼女と同じように、宗一郎もまた興味を掻き立てられたのだ。何よりも自分の作品を見つけ、評価してくれる人間の存在は随分と久しかった。

「本当に見学しに来るとは思わなかったって顔ね」

「そりゃあそうだろう。大抵は冷やかしか、その場限りの出会いなんだ。心を壊さないためにも、いちいち真に受けないようにしなくちゃ」

 夢がないのね、と瞳子は嘆息してあたりを見回す。雑居ビルの一部屋を借りた、1LDKのリビングスペース。アトリエと言えば聞こえの良い、もう何年も住んでいる宗一郎の自宅だった。常に作業場へ自然光を取り込むために、大きなテラス窓にはカーテンがない。夜の間は、床に敷いている絵具まみれの段ボールを窓辺に立てかけるだけでよかった。正午をすぎてすぐの、柔らかく彩度の低い光が差し込んで、壁一面に立てかけられた過去の完成品を斜めに照らす。瞳子はその一枚一枚を興味深げな眼差しで眺めた。思えば、他人をアトリエに招いたのは今日が初めてだ。色鮮やかな絵具を使った作品の少なさが、燻った日々の生活を如実に表すようで途端に気恥ずかしかった。

「ねえ、あなたの絵ってやっぱりすごくおいしそうよ。本当に不思議ね」

「不思議なのは君だよ。僕の絵に、そんな感想を抱いた人は他にいない」

「ならこの絵に、他のどんな言葉が浮かぶって言うのかしら。有り得ないわ」

 心底そう思っているらしい瞳子の口ぶりに、宗一郎は過去に受けた品評をいくつか思い返す。テーマが読み取りやすい、筆の運びが丁寧。後ろ向き、素直すぎる色遣い、個性を感じない。知人や審査員や、自称バイヤーの言葉がさっと脳裏をよぎった。おいしそうだと言った人間はやはり、ただの一人もいない。瞳子はさらに何か言おうとこちらを振り返り、ふと宗一郎の背後に目を留めて片眉を上げた。しわ一つないセーラー服の白色は、薄汚れた壁とベニヤパネルの群れの中ではひどく異質だった。

「それが今、描いている途中の絵なのね。近くで見ても構わない?」

「ああ。乾いてないから、服に付けないようにするんだよ」

 承知していると言うように頷いて、瞳子が作業スペースへ足を踏み入れる。紺の長い靴下で覆われた爪先が、床に敷き詰められた段ボールをぎしりと踏んだ。塗り重ねていく前の、まだ抑揚のない色合いのキャンバスを瞳子は覗き込む。黒く光を通さない両眼が、心なしかきらめいたように見えた。

「いいわね、もうおいしそう。テーマはもうあるのかしら」

「『猜疑心』にする予定だ。まずそうな題名だろう?」

「題名がどうだろうと関係ないのよ。この絵をこの絵たらしめるもの、この絵がおいしそうであるわけは、全てキャンバスの中にあるの」

 うまく言えないけれど、と呟いた横顔が黒髪に隠れる。十七かそこらの歳ではやや高い身長を曲げて、瞳子は忠告を忘れたのかと思うほど体を近づけていた。初めて会った日のように、そのままじっと動かなくなってしまった彼女を所在なく眺める。やむを得ず刷毛とパレットを置いて、宗一郎は台所へ向かうことにした。もしも製作する様子を見たいと言うのなら、茶くらいは出しておかなければならない。焦げついて汚れたステンレス製のやかんに、多めの水を入れて火にかける。食に頓着がないために、水道水をそのまま飲んでばかりいる宗一郎が茶を入れるのは久々だった。記憶を頼りに戸棚を漁り、ほうじ茶と緑茶のティーバッグを見つけ出す。両方を取り出したところで、今時の若い少女がこんなものを飲むだろうかと不安になった。

「ねえ君、ほうじ茶と緑茶ならどちらを飲むかい。他になくてすまないが」

 換気扇の鈍い重低音に負けないよう、宗一郎は声を張りつつリビングの方へ顔を出す。キャンバスの前に瞳子はいなかった。

「私、飲み物なんていらないわ。ほうじ茶も緑茶も水も、何にも」

 思いがけず玄関の方から返事がして、ティーバッグを持ったまま慌てて声を追いかける。瞳子はいつの間にかローファーをきちんと履いて、ドアの前に立っていた。帰るのか、と訊ねた宗一郎に瞳子は笑みを浮かべて頷く。

「ええ。でも、だからいらないわけじゃないわ。ただの食べ物や飲み物は、私にまったく必要ないの」

「なんだって」

「欲しいのはね、これだけ」

 べえ、と瞳子が舌を出す。暗い空洞の奥から現れた赤いはずの瞳子の舌は、宵闇のような青色にぬらりと光っていた。つい先ほどもパレットに広げた、プルシャンブルーの油絵具。指の間をすり抜けて、床に叩きつけられたティーバッグが乾いた音を立てるのを聞いた。青い舌を元通りにしまいこんで、少女は歯をむき出して笑う。痩せ細った右手の指先が、薄い唇に添えられた。

「うふふっ。ごちそうさま。思った通り、おいしかった」

 セーラー服の背中がドアの向こうへ消えた後、呆けていた宗一郎は弾かれたように駆け戻った。壁や画材に体のあちこちをぶつけながら、作業場に立てかけたキャンバスの前へどうにか辿り着く。丁寧に塗りつけられた、プルシャンブルーの立体的な盛り上がり。その中央が小さく窪んで、舌でぬぐい取られたあとがついていた。瞳子の舌と同じように、その窪みだけが、ぬらりと唾液で光っていた。

「なんだ、何も進んでないじゃない。つまらないわね」

 一ヶ月ほど置いてアトリエに現れた瞳子は、真っ先に作業場を覗き込んで柳眉をひそめた。作業場の壁に立てかけられた『猜疑心』は、依然プルシャンブルーより他の色を知らない。宗一郎はキャンバスの前でうなだれたまま、君のせいだろう、と返すことしかできなかった。いくつも色を広げては見定め、普段以上にぐちゃぐちゃになった手元のパレットに目を落とす。部屋の隅でがたがたと音を立てて稼働する、古いつくりの扇風機がペインティングオイルの強い臭いをごまかしていた。後ろへ瞳子が近づいてくる気配がする。

「なら、さっさとそこを塗り潰せばいいじゃない。どうしてそうしないの?」

 そこ、と細い指がさしたのは、他でもない瞳子が舌でさらったあとだった。魚の表皮のごとくぬらついていた唾液はゆっくりと乾いて、今はぬぐい去られてできた小さな窪みだけが残っている。一ヶ月、宗一郎はずっとそこばかりを見ていた。塗り潰そうと何度も睨んで、できなかった。大事に製作していた作品を自分は損なわれたはずだ。今、こうして平然と現れた瞳子にも憤慨するべきであるのに、感情は驚くほど凪いでいる。瞳子が青い舌の上に乗せた「おいしかった」という言葉ひとつが、宗一郎の心の深い場所でいつまでも響いていた。

「何もないならもう帰るわ。ただここにいたって退屈だし」

「えっ。今来たばかりじゃないか。待ってくれよ、お茶ならすぐ淹れるから」

 飲まないって言ったでしょう、と面倒そうにはねのけ、黒髪をひるがえした瞳子は早足で玄関へ戻っていく。立て付けの悪いドアを押し開けた瞳子の、膝丈のスカートを西日が濃い紺色に照らした。ローファーの底が硬質な音と共に、外付けの錆びた階段を踏みしめる。病的に痩せた後ろ姿が歩道まで下りきってしまう前に、宗一郎は玄関から飛び出して階段の手すりを掴んだ。失望した瞳子はもう、ここを訪れなくなるかもしれない。それが今、他の何よりも恐ろしかった。

「おいっ、うまかったか。他の誰よりも、おれの絵はうまいのかっ」

 軋むほど手すりに体重をかけて、宗一郎は喉を震わせて怒鳴る。長らく少量の空気しか取り入れてこなかった肺が圧力に引き攣って、潰れるような痛みを呼んだ。掠れた音を立てて激しく咳き込む宗一郎を、まばらに歩いていた通行人が歩道から訝し気に見上げる。階段の中腹で足を止めた瞳子は、ゆっくりとこちらを振り返った。

「ええ。今までで一番、あなたの絵がおいしかった」

「なら、きっとまたここに来てくれ。つぎはっ」

 がさがさに乾いた唇がぶるりと震える。今、一体どんな顔つきで叫んでいるのだろう。一瞬なぜだか、自分が地獄へ落ちてしまうような感覚がした。

「次は、もっとおいしいはずだから」

 暮れなずんで冷えてきた風が、黒い漆の髪を大きく巻き上げる。宗一郎の言葉を聞き届けた瞳子は、両眼を細めてにっこりと笑った。この瞳を見たかったのだと思った。

 

 絵を描いている。目覚めてから眠るまで、ひたすらに絵を描いている。宗一郎はキャンバスから目を離さないまま、足元のコップに手を伸ばした。口をつけて傾けようとして、中の水がもう一滴もないことを知る。また台所で水道水を注ぎ直すのは面倒で、宗一郎は足元へコップを粗雑に転がした。ぽたり、と顎から垂れた汗が、床の段ボールへ濃く円いしみを残した。

 宗一郎が作品を何枚も盛んに描くようになって、近頃はやや人に見られるようになってきた。展示会や地元のしけた絵画展を経て、今は好評も不評も同じだけ増えている。けれどもう以前のように、一つひとつに振り回されることはなかった。他の誰が何を言おうと、宗一郎はただ、瞳子がおいしいと言うものを作り続けるだけなのだ。パレットで色を混ぜ合わせ、刷毛を振り下ろす。描く。エメラルドグリーンがキャンバスの上でうねる。随分と絵に明るい色が増えたと、何人かの知り合いに言われた。明るい色を使うからといって、別段いつも上向いた気分でいるわけではない。ただあの少女の舌を染める色は、鮮やかであればあるほどいいと思っていた。一通り塗りつけるのを終えて、汗をぬぐいつつキャンバスをじっと睨みつける。そこへ突如、視界に入り込んできた生白い指が表面をさっとすくい取った。

「本当ね。あの時よりもっとおいしくなってる」

「え、あっ。と、とう」

 瞳子、ときちんと名前を呼べたか分からない。がたんと音を立て、宗一郎は椅子から転げ落ちて後ずさった。瞳子は宗一郎に目もくれずに、エメラルドグリーンの指先を綺麗になめとっている。桜貝のような爪をてらてらと濡らすなまめかしい唾液は、間違いなく本物の瞳子のそれだった。ようやくまた、瞳子が現れたのだ。

「ひ、ひどいじゃないか。一年も顔を見せないなんて。ああ、でも……きっと今日こそ、僕は君が来ると信じていたよ」

 このところ一日中離すことのなかった刷毛を投げ捨て、宗一郎は喜びに裏返った声でまくし立てる。刷毛はエメラルドグリーンの飛沫を飛ばしながら、壊れて動かなくなった扇風機とぶつかった。もうそんなに経ったかしら、と微笑んだまま瞳子が言う。

「もう少し食べたって構わないから、今日こそはゆっくりして行ってくれよ。他の誰よりもおいしい絵だろう? 一体どんな味がするのか知らないが」

「あら。知りたいなら、自分でなめてみればいいじゃない」

 宗一郎は恐る恐る小指を伸ばして、瞳子がさらったところのそばの絵具をぬぐい取る。エメラルドグリーンをたっぷり乗せた指の腹を口へ運ぶと、舌先にぬるいクリームを塗りつけたような感触がした。口の中に広がってすぐに、薬品じみた鼻に抜ける辛味と強い苦味が味蕾を襲う。声もなく悶絶し、洗面所へ駆け込んだ宗一郎をけらけらと瞳子が笑った。吐き出されて流しに落ちていくエメラルドグリーンは、唾が混じって常より薄まっていた。

「絵具を食べて生きるなんて、僕には信じられないよ。いつもこうやって、色んなやつの絵から色をすくい取っているのか」

「あなたの絵が一番おいしいって言ってるのに、そんなことが気になるの?」

 後を引く苦味に咳き込みつつ、コップに水道水をためて口を濯ぐ。瞳子がそう言うのなら、知る必要はないのかもしれない。洗面台の鏡を覗くと、齢四十のやつれた男が緑の舌をして突っ立っていた。宗一郎の絵の色に舌を染めるのは、やはり瞳子でなければならなかった。

「でも、人の体に絵具は悪いんじゃないか。どこか体を壊しているから、君はそんなに細っているんじゃ」

 くたびれたシャツの袖で濡れた口元を拭きながら、宗一郎は作業場へと戻る。キャンバスの表面を骨のような指でつうとなぞって、瞳子は光を通さない黒の瞳を「違うわよ」と眇めた。

「これはね、いつもお腹が空いてるの。分かる? 私はずっと飢えているのよ。満腹になるまで、これを食べたことがないから」

 ぬぐわれた絵具の盛り上がりが再び、小さな口の中へと消えていく。口の端についたエメラルドグリーンを同じ色の舌でなめとって、瞳子はうっとりと息をついた。

「いつか、お腹いっぱい食べてみたいわ。とびきりおいしい絵を、キャンバスから色ひとつなくなってしまうまで」

 長い黒髪の先を人差し指に巻きつけて、瞳子は夢を見るようにささやく。宗一郎はこの美しい少女が、己の絵を残さず全て食い尽くすところを見たくなってしまった。

 

「やあ、いい夜だね。ちょうど君に会いたかったんだ」

 数年前、知り合いの結婚式で着て以来の一張羅は、無事に虫に食われることなく箪笥の奥で眠っていた。浮かれた調子でスーツの上襟を引っ張ってみせた宗一郎に、瞳子は白けた眼差しでもって応える。月明かりの薄く青白い、どこか生気を感じない光は、瞳子の白い肌やセーラー服によく似合った。

 瞳子の顔を見るのは、随分と久しぶりだった。一年と少しは会っていなかったかもしれない。今日という名誉な日に、瞳子が現れてくれたことを宗一郎は喜んだ。

「いつも疲れ切った顔ばかりなのに、今夜はやけに上機嫌なのね。立派な服にお酒まで飲んで、一体何があったのかしら」

「酒臭いかい? すまないね。なに、表彰式の帰りだよ」

 精力的な制作活動が、とうとう実を結んだのだった。そこそこに名の知れた美術館が主催する、絵画コンテストの一般部門に作品のひとつが大賞に選ばれたのだ。ホテルのパーティー会場を貸し切って行われた表彰式に、宗一郎は終始緊張しきりだった。しかし会場から作品へさざめくような拍手が送られた時、やっと日の目を見たのだと思えた。

「そう。それで浮かれてるの? よかったわね」

「いや、機嫌がいいわけはもうひとつあってね。今なら、あれが描けそうな気がするんだ」

 帰路は脇道から大きな橋へ差しかかり、あたりはいっそう夜の静けさを増す。宗一郎の軽快な足取りに合わせて、右手に提げた白い紙袋が時折がさりと音を立てた。あれって、と訊ねた瞳子の首筋に黒髪が一筋かかる。

「何でも君の好きにできる、君のための一枚さ。ずっと欲しがっていただろう? 僕のおいしい絵を、いつかまるごと食べさせてやりたかったんだ」

 瞳子がいきなり背後で足を止めたのが分かった。つられて立ち止まりつつ振り向くと、瞳子は目を見開いてじっとこちらを向いている。二人分の足音がやんだ途端、橋の下で流れる川のせせらぎがよく耳に届いた。夜風に長い髪の先をなびかせて、いいの、と瞳子は聞いた。十七かそこらよりもっとずっと幼い、子どもが宝物を確かめるような声色だった。

「ずっと、私のことを考えてくれていたの?」

「ああ。もちろんさ。大賞も、とびきりおいしい絵を食べて喜ぶ君も、僕にとっては等しく名誉だ。今すぐやり始めてしまいたいくらいだが」

「なら早く描いて。今すぐに、それを描きなさい。この欄干にでもいいわよ、私が残らず食べてしまえば誰にも分からないんだから」

 二人で来た道の方向へ戻って、土手から橋の下まで降りる。川を挟んでトンネルのように向かい合う壁の前に立って、宗一郎は右手の白い紙袋を掲げてみせた。

「副賞に、ちょっといい値段のオイルと絵具セットをもらったんだ。残念ながら刷毛はないが、まあ、どうとでもなるだろう」

「うふふ。それをこんなところで使ってしまっていいのかしら」

「こんなところだから使うんじゃないか。きっと味も高級になるだろうよ」

 左の手のひらをパレットに見立て、広げた絵具とオイルを混ぜ合わせる。できた色を右手の指にたっぷりすくい取って、宗一郎はキャンバスに見立てた壁へ思い切り塗りつけた。さっと壁の表面に走る、光を通さない漆黒。瞳子のための一枚は、瞳子のことを考えながら描こうと前から決めていた。ジンクホワイト、カドミウムレッド。プルシャンブルー、エメラルドグリーン。統一することなど考えてもいない、めちゃくちゃな色相の絵具同士が縦横無尽に混ざり合う。もしも表彰式にいた人間たちにこの有様を見せたなら、こんなものは芸術ではないと皆が怒り狂っただろう。それでも、この絵は宗一郎にとって偽りなく正しかった。自分は今、確かに瞳子を描いているのだ。やがて何度も壁に擦り付けた手のひらが赤くすりむけだした頃、宗一郎は動きを止めた。知らぬ間に肩で息をして、全身に汗をかいていた。

「これが私の絵。これが、すべて私のもの」

 瞳子は宗一郎が作業に耽った一時間余りを、身動ぎもせずに見ていたらしかった。小さくそう呟いて、ローファーが音もなく壁の絵へと歩み寄る。全部食べていいのね、と念を押すように瞳子が訊ね、宗一郎は頷いてみせた。

「ああ。君が、これを一色残らず食い尽くしていいんだ」

「そう、そうなのね。それじゃあ」

 いただきます。そう言葉を紡いだ瞳子の舌は、次の瞬間にはコンクリートをなめていた。あちこちが劣化してひび割れた壁に躊躇なく手をつき、じゅるりとざらついた音を立てながらなめ取っていく。口の端から溢れた黒色を追いかける手もまた色に塗れ、汚れひとつなかったセーラー服に鮮やかな染みをいくつも落とした。つややかな黒髪の先についたカドミウムレッドを、瞳子は毛先ごと食んで啜ろうとする。育ちの悪い小さな子供が、皿まで舐めつくそうとするのによく似ていた。骨の浮いた手で掴んではかき混ぜ、全身がべたべたになるのも構わず、壁に体を押し付けてなめる。汚らしく、おぞましく思うべき光景であるのに、瞳子にはまだ人形じみた美しさがあった。

「おいしい! おいしい! あははっ、おいしい。なんて幸せ!」

 真っ青な涎を垂らしたまま、瞳子は声を立てて笑う。けたたましい笑い声は夜の静寂を鋭く切り裂き、壁と壁の間でうねるように反響した。ぽっかりと大きく開いた口の奥は、どろどろとした極彩色で染まっていた。

「あ、ああ……。ああ、ははは」

 宗一郎の体はよろめきながら後ずさり、とうとう浅い川の中へ座り込む。ばしゃんという音を立て、仕立てのいいスラックスが冷たい水を吸う感覚がしても、立ち上がることができなかった。宗一郎の視線は笑い続ける瞳子と、食い尽くされた壁の有様に釘付けだった。自分の作品を幸福そうに体に浴びて、口の周りを汚しきった少女。その少女の唾液と手形でぐちゃぐちゃの壁は、巨大ななめくじが這っていったようにぬめって色を滲ませている。腹の底から湧き上がった感情に逆らうことなく、宗一郎は哄笑した。完成した、と思ったのだ。股間が、いつの間にか勃起していた。

「はははははは! そうか、そうだったんだな。これがおれの作品か。おれの作品は、今夜初めて完成したのか。これが、これこそがおれの絵だっ!」

 川の中へ仰向けに倒れ込み、笑いながら手足をばたつかせる。すりむけた手のひらが冷たい川の水に触れて、絵具ではない赤色をわずかに滲ませていた。

『瞳子へ。元気にしていますか。僕は今、病室からこの手紙を書いています。知り合いにお前はおかしくなったと言われて、少し前に入院させられました。キャンバスがなくても絵具さえあれば、絵を描けることは君も知るところでしょう。だけど真っ白でつまらない病室の壁においしい絵を描こうとしたら、看護婦が絵具を一つ残らず取り上げていってしまいました。だからしばらく絵が描けません。ほんとうに、面目ない。

 僕の作品はあれから完成したことはありません。あの夜、僕に呪いのようなひらめきを与えて、君はさっぱりここへ来なくなってしまった。どうしてですか。どこにいますか。あの夜に確かに得た、自分の絵が描けたという感覚を取り戻すために、僕は何でもしました。描いた絵を全てなめました。でも苦いばかりでだめなんです。あの舌でぬるりとなめ取って、僕の絵を僕の絵たらしめるのは、やはり君でなくてはならなかった。

 この病棟は夜におかしな叫び声や泣き声が聞こえてきます。そいつらのせいか、僕はだんだんとおかしくなってくるんです。君は初めから幻だったのではないか。そうでないなら、僕が何かの拍子に君を殺してしまったんじゃないか。例えば君の首を絞めて、あるいは君の腹を刺して、あるいは非常階段から君を突き落として。きのうは君の白くて柔らかい首筋を、思い切り絞めた両手の感覚が蘇りました。そんなことはしていないはずなのに。

 ここの医師が言うには、僕はもう絵を描いてはいけないそうです。でも近いうち必ず、僕はまたおいしい絵を描きます。君のために何枚でも描きます。あの時よりもっとおいしいはずです。だからまた会いに来てください。お腹が空いているでしょう。僕はずっと、ここでおいしい絵を描いて待っています。』

 以上が、晩年のものと思われる未発表の作品『瞳子へ』と共に保管されていた手紙の全容である。

 田村宗一郎氏は生前、抽象画の異端児と名高く、独特の描画技法とどこか漂う耽美さと狂気で多くの人間を虜にした。先月五十一歳という若さでこの世を去るまで、自らの作品に関してほとんど何も語らなかったという。『瞳子へ』は、氏の遺族が自宅へ遺品整理に赴いた際、アトリエに唯一残されていた作品だ。遺族は取材に対し、作品は氏らしからぬ虹色のような鮮やかな色遣いで構成されていたことを明かした。しかし、絵の中心部には何らかの干からびた肉片が貼り付けられており、人間の舌のようにも見えることから遺族は警察へ調査を依頼している。

執筆者

文芸学科3年 櫻糀瑚子
この作品は2022年度文芸研究II・額賀ゼミの実習で制作されました。