小説
原罪
人の数だけ膨れあがる情報を取り込み続け、時代とともに混沌を極めていくインターネット。電子の海の片隅で、今や伝説上の人類の始祖でさえツイッターをやっている。
『イブ、おまえをずっと待っている。おまえと約束を交わし、互いに思い合いながら輪廻転生を重ねてきた。ようやく平和の時代に生まれたのだから、今世こそ必ずおまえに会いたい。』
フォロワー数十五、フォロー数は一。彼をフォローする奇特な十五名は、ほとんどが中身のいないスパムアカウントだ。あとの数名は自分と同じく、偶然彼に辿り着き好奇心からフォローしたのだろう普通のユーザーだった。アイコンもヘッダーも初期設定のまま、『アダム』と名前が設定されているだけの簡素なアカウント。しかし彼の総ツイート数は、自分が見つけた時からすでに数万件を超えていた。呟きの内容は全て、もうひとりの人類の始祖を探し求める言葉だ。
『おまえは悪魔の呪いを受けて、今も記憶を奪われたままなのだろう。私にも同じ呪いがあるが、蛇の言葉を用いたまじないを唱えることで跳ね返している。』
『イブ、イブよ、どこにいるのか。悪魔の棲む城に囚われているのなら、私がきっと助け出してみせる。今度こそ、共に光の中へかえろう。』
物語の登場人物や有名人になりきって遊ぶのは、昨今のインターネットではそう珍しい光景ではない。しかし聖書の登場人物であるアダムになりきって、ツイッター上でイブを探すことに一体何の意味があるだろうか。ましてアカウントを作ってから毎日、痛切に呼びかけるツイートを数万件も投稿する行為は、どうも尋常ではないように思えた。
だからつい、興味が湧いたのだ。一体どんな人間が、どんな心持ちで『アダム』をやっているのか。もしも本当に『イブ』をツイッター上で見つけたら、初期アイコンの向こうの人物はどうなってしまうのか。期末考査が終わるまでゲームで遊ぶことを禁じられている智樹には、もってこいの暇つぶしだった。
「ちゃんと勉強してきなさいよ、智くん。お母さんをがっかりさせないでね」
玄関まで見送りに来た母の、お決まりの台詞を聞きながらスニーカーの靴紐を結ぶ。塾のテキストがぎっしりと詰まったリュックサックを肩にかけて、ドアのノブに手をかけたまま智樹は母を振り返った。いましめるような口調に反して、母の顔は嬉しそうだ。休日の朝に自ら早起きをして、塾へ自習をしに行く勤勉な息子が誇らしいのだろう。せっかくの機嫌を損ねてしまわないように、智樹も微笑みを浮かべて頷いておく。
「ちょっとでも内申点をよくしないと、いい大学もいい会社にも入れないのよ」
「もちろん、分かってるよ。俺、今日は十九時まで残って自習するから」
まあ、頑張るのね、と母の声がいっそう高くなった。智樹が自分の理想通りに行動した時に、褒めそやす母の声色は電話に出る時のそれに似ている。夕飯は好物を作って待っているという言葉に感謝を示して、智樹は家を出た。しばらく行き慣れた道を歩いて、大分遠ざかったところで立ち止まる。大きく息を吐くと、緊張で手がひどく冷たくなっていた。なにしろ、親に嘘をついて勝手をするのはこれが初めてなのだ。
智樹は今日、かのアダムに、彼の探し求める『イブ』のふりをして会いに行く。
アダムに接触するために、まず智樹は『イブ』という名前で新しくアカウントを作った。彼に合わせ初期アイコンのまま、アダムをフォローしてダイレクトメッセージを送信したのだ。それらしく、最愛の片割れになりきって。
『アダム、アダムではないですか。私こそあなたのイブです。姿こそ大いに変わってしまいましたが、奪われたままの記憶のかけらがそうであると告げています。ナーグナークの聖戦で交わした約束、覚えていますよ。』
アダムのこれまでのツイートによれば、この時代に輪廻転生する前はナーグナークという場所で兵士になって戦っていたらしい。敵の矢を受けて命を落とす間際、同じく輪廻転生していたイブに出会ったのだという。次はかならずや平和の時代に生まれよう、と誓い合ったのが、彼がよくツイートに書き込む『ナーグナークでの約束』だ。
気になって、ナーグナークという場所を検索したことがあったが、一件もヒットしなかった。どこにも存在しない地名なのだ。アダムの書き込む地名や人名、単語にはたびたびこういうことがある。鳥使いのニコル、騎士団長マルクス、天文学者のオーギュスト。どれもアダムの古い馴染みのように書かれるが、聖書はもちろん長い歴史のどこにもそんな偉人はいない。こういったよくできた嘘を、アダムが真実のように語る時はいつも得体が知れなくて怖かった。
『イブ、まさか今世で本当に出会えるとは。心が喜びに打ち震えている。何百年も前からずっと探していた。今度こそ、悪魔を鎮めて共に光の中へかえろう。』
メッセージを送ってから一日と経たず、そう返事が来て智樹はアダムにフォローされた。アカウントを作ってから十三年間、恐らくずっとフォロー数ゼロだっただろうアダムにだ。こんなメッセージひとつで智樹をイブだと信じたことも、唯一アダムからフォローを返されたことも愉快だった。期末考査を終えてアカウントを削除するまで、いよいよイブになりきって遊ぶことにしたのだ。
『私も、嬉しいです。まだ何もあなたを、これまでのことを思い出せないのですが、この気持ちこそ運命の再会が叶った喜びなのでしょう。アダムは今、どんな人間に生まれたのですか?』
『何のことはない、どこにでもいる凡庸な男の体さ。だが魂は確かに私だ。私も、イブの今の姿を知りたい。よければ一度会わないか。』
『会う? 私とあなたが、現実で?』
『ああ。現代は随分と平和のようだ。だが命を全うし、次に生まれた時も穏やかな時代であるとは限らない。また何百年も会えなくなるかもしれないのなら、今世のうちに一度会いたいと思ったのだ。構わないか?』
そう多く言葉を交わさないうちに、いきなり会うことを提案された時は驚いた。智樹としては、ずっとこうして文面上で『アダムとイブごっこ』を続けるのだとばかり思っていたのだ。
断ろうかとも考えたが、アダムがどんな人間なのか智樹にはかねてから興味があった。性別が男であるという情報以外に、文面からはあいにく年齢も経歴も知ることができない。十数年、ツイッターで人類の始祖を名乗るような男がどんな容姿かひと目見てからでも、アカウントの削除は遅くないように思えた。
『着きました。黒い大きめのリュックと、青に近い色のパーカーを着ています。西口のすぐ前にいるので、きっと分かりやすいでしょう。』
待ち合わせ場所は、昼夜問わず利用者の多い都市部の駅だった。ついに自身の特徴を伝え、その場に突っ立った智樹は忙しなく周囲を見回す。十一月に入り、肌に触れる外気は午前中であってもいよいよ冷たい。空は灰色の雲で、薄く覆われていた。今日は傘を持っていないから、雨が降る前に帰らなければならない。
『私もじきに到着する。すまないが少し待っていてくれ。』
顔も名前も知らないネット上の人間に会うのは少し恐ろしいが、それ以上に初めて自分の意思で行動するという事実のほうに高揚していた。なにしろ受験した高校も、普段着る服も自分で決めていないのだ。母を騙した罪悪感に苛まれずに済んでいるのも、この高揚感のおかげなのだろう。テキストが詰まったリュックサックの重さを意識するたび、言いようのないスリルを感じて妙にどきどきした。
「見つけたぞ、イブ。ナーグナーク以来、おおよそ六百年ぶりに会うな」
不意に低い男の声がして、知らぬ間に俯いていた智樹ははっと顔を上げる。くすんだ赤色をしたタータンチェックのシャツを着ている、なるほど凡庸な顔立ちの男がそこにいた。智樹の父親と同じか、少し若いくらいの年齢だろう。聖書の中のアダムに引きずられ、どうしても精悍な若者のイメージがあっただけに少し面食らう。アダムおじさん、という単語がつい脳内に浮かんだ。
「また出会えて本当に嬉しいよ。おまえは、今世では男に生まれたのだな」
「えっ。あっ、はい。何というか、すみません」
「謝ることはない。イブは私の恋人であり夫婦でもあるが、同時に双子のきょうだいであり最も近い隣人でもある。ひとつの関係に縛られず、互いに必要なものの全てを満たし合う存在なのだ」
本当に記憶がないようだな、とアダムは細い目をさらに細めて笑った。毛の整えられていない眉がつられてわずかに下がる。鼻の低い、どこにでもいそうな日本人のくたびれた顔と、神のように重々しい口調はまるきり釣り合っていなかった。どことない気味の悪さを覚え、普通の話し方でいいのにと内心考える。彼だって家や会社では、きっと普通に話しているに違いないのだ。
「ゆっくり思い出すといいさ。私とおまえの力が合わさって、はねのけられぬ悪魔などいないからな。アダムとイブは、こうしてふたり連れ立っているだけでも魂的に強く意味を持つ」
「は、はあ。魂ですか……」
発言にいちいちぴんとこない智樹を見て、アダムは微笑んで歩き出した。適当にあしらって帰るつもりが、すっかりアダムのペースに乗せられている。智樹は彼を騙して遊んでいることも忘れて、雑踏に紛れそうな背中を慌てて追った。
「まずは、私の親愛なる協力者たちに会わせた方がよさそうだ。魂や何やらの話は、彼らから聞くといい。それで、少しは記憶が戻るといいのだが」
「お待ちしておりました、アダム様。そちらの方は、もしかすると」
「ああ、先日話したイブだ。悪魔に奪われた魂の記憶は、まだ戻っていないらしいが。おまえたち、イブに色々と教えてやってくれるか」
ファミリーレストランの窓際奥、四人掛けのテーブル席で二人の男女が智樹たちを待っていた。この中で最も歳上と思われる白髪の壮年の男に問われ、アダムが頷いて智樹を指し示す。男と女は色めき立ち、おお、と声を上げながら立ち上がって智樹の顔を見つめた。二人の勢いに、つい半歩後ずさる。
「ははあ、あなたがあのイブ様! アダム様と並び、人類の始まりを司るお方。僕が今世を生きている間に、お二人揃った姿を目にできるとは……奇跡ですな」
「あの、私の手、握っていただけますか。イブ様からの祝福を賜りたいんです」
三十代かそこらの女が、心底感極まった様子で智樹へ恭しく両手を差し出す。反射的に両手で握り返してから、智樹は消えてしまいたいほどの羞恥を覚えた。普通の利用客が周囲に座っているような、いたって日常的な場所で、自分たちは何をしているのだろう。もう少しでも大きな声で、アダムたちが自分を囃しでもすれば注目が集まってしまう。急いでアダムの隣に座り身を縮こめる智樹の向かいで、女は未だ嬉しげに、祝福など何も受けていない自らの両手を眺めていた。
「彼の魂の名はオーギュストという。天文学者をやっていたようだ。彼女の方はイブとは逆で、女の体だが魂は男だ。マルクスといって、騎士団長を務めていた」
アダムが二人を手で示し、それぞれの紹介をする。智樹はアダムのツイートを思い出した。天文学者のオーギュスト、騎士団長のマルクス。アダムの『よくできた嘘』として、たびたび登場する人名のひとつだ。風使いのニコルは今回欠席なのだと、横合いからオーギュストが大真面目に補足した。
「恒例の『祈り』をやる前に、まずはイブ様に軽くお教えしましょう。イブ様は、前世を信じておいでですかな? あれは一貫するひとつの魂が、有限の生を繰り返し輪廻することによって発生する、肉体を伴わぬ過去なのです」
脇に置いていた白いショルダーバッグから、マルクスがさっとボールペンを取り出す。テーブルに設置されている紙ナプキンを一枚引き抜いて、女性らしい小さな右手がさらさらと図式を描きはじめた。
「いくつも生死を繰り返し次へ向かううちに、いつしか我々の魂にはそれぞれ課題が刻まれます。その生で犯した罪の清算であったり、この世界の大いなる真理に辿り着くことであったり、求められるものは魂によって違うんですよ」
「ええと。役目みたいな感じですか?」
「まあ、そうですね。自分の課題を自覚するか否かに関わらず、さっさと解決する人もそうでない人もいます。私たちは後者で、魂の課題を解決できないまま今世に至る人間です。マルクスやオーギュストというのは、魂に課題が刻まれたときの生の名なんです」
では、アダムもそうだということだろうか。人類の始祖の魂にさえ、課題とやらは与えられてしまうらしい。紀元前から今に至るまで解決できない課題とは、きっとさぞ難解なのだろう。智樹は真剣な顔つきで横に座るアダムと、智樹ではない本物の『イブ』を少し哀れに思った。
「魂の課題の自覚、そして解決のために、我々は長い間互いに協力してきました。そしてアダム様の課題の解決には、イブ様が必要なようだということがある時分かったのです」
「イブが? じゃなくて、俺がですか」
オーギュストが重々しく告げた言葉を反復して、アダムの方を見る。アダムはひとつ頷いて、「はっきりとは分からないが」と静かに前置きした。
「私の課題にはおまえが、おまえの課題には私がいることで解決する。何となくだがそう感じるのだ。私たちは魂が対になっているから、あり得ない話ではない」
「そういうわけですな。ですから、なるべく早くに記憶を取り戻していただきたいのです。アダム様の課題と、イブ様の課題のためにも」
昼時を迎え、店内が少しずつ混み合い始める。まるで智樹が世界の命運を握っているとでも言いたげな口ぶりだった。天文学者は人好きのする垂れ目を使命に燃やし、騎士団長は強大な力を持つ者への隠しきれない憧れをにじませてこちらを見る。正体を偽っている申し訳なさよりも、子どもたちのヒーローごっこに混ぜられてしまったような居心地の悪さを覚えた。困惑する智樹を見かねてか、アダムは軽く両手を叩いて彼らに祈りの準備を促す。
「ひとまず説明はこのくらいにして、全員で祈りを捧げないか。もしもアダムとイブが揃ったら、祈りを捧げてみたいとずっと思っていたのだ。我々のエネルギーを体に流すことで、イブの魂が目覚めるきっかけを作れるかもしれない」
派手な色の縦縞模様が入ったファミレスの座席に、智樹たちは腰掛けたままテーブルの上で手を繋ぐ。アダムと智樹が、智樹とマルクスが、マルクスとオーギュストが。そしてオーギュストとアダムが空いた片方の手を繋いで、輪の形ができあがる。
「目は閉じても閉じなくてもいいですよ。私たちはいつものように、自分の霊的エネルギーを循環させて高め合います。イブ様はとにかく、自分の手から相手の手へ受けたエネルギーを伝えるイメージをしてください」
「あの、霊的エネルギーというのは」
「宇宙を通じて、それぞれの霊魂から湧き出ているエネルギーのことです。今の時代ではもう、魂を自覚している少数の人にしか扱えなくなりました」
遠い古代では、誰もが魔術のように使えていたらしい。マルクスの説明を聞きながら、智樹はぎこちなく目を閉じた。真剣な顔つきで祈りを捧げる大人たちと手を繋ぎ、じっと視線を合わせることなどできそうになかったのだ。まぶたに覆われてできた小さな暗闇を見つめながら、ただ柔らかい人間の手の感触を感じていた。右手と左手に、智樹と何も違いのない温度で熱が触れていた。
三十秒、一分、一分三十秒、二分。思っていたよりずっと長かった彼らの祈りは、不意にアダムが重く息をついたことで終わったようだった。右手に握ったアダムの手が身動ぐのを感じて目を開けると、彼らは一様に手応えのない表情を浮かべ顔を見合わせている。
「上手くいきませんな。イブ様、もう少し肩の力を抜かれては? 現実的な三次元の意識を、まだ捨て切れていないようだ」
「そうですよ、イブ様。私たちのエネルギーは三次元よりさらに上、神秘の宇宙から届いているんです。現実の見かけや常識に囚われないで」
「な、なんか、すいません。俺……」
マルクスたちと智樹のやりとりをじっと見ていたアダムは、繋いでいた手を離すと節くれ立った指で顎をさすった。年齢に応じて少したるんだ目元が、どうしたものか、と言っている。
「思っていたより悪魔の呪いが強いな。私と同じように、何千年も前に受けたものにしては効き目が弱まっていない。もしや、おまえの身の回りに悪魔がいるのではないか? 今世で新しくかけられた呪いの可能性がある」
なんですと、と胡乱な声をあげて、オーギュストがまなざしを鋭くした。マルクスも騎士らしく剣呑な雰囲気をまとうが、どこか非日常的な波乱の予感に歓喜しているようにも見えた。楽しいのだろうな、と智樹は他人事じみた感想を抱く。この奇妙な会合の空気に、だんだんと慣れてきていた。
「悪魔なんて。俺の身の回りにはいないですよ」
「そうも言い切れないさ。まだイブとして魂を自覚していない今のおまえは、変化した悪魔を見破れないはずだ。忘れたか? 悪魔はどんな姿にも化ける。人に鳥に、蛇になって近づき、我々を陥れようとするのだ」
出会ってから今まで穏やかだったアダムの顔が、途端ひどくいまいましげに歪むのを見た。遊びや演技にしては、過剰なほど真に迫った生々しい憎悪。自分に向けられたわけでもないのに、智樹の心の表面をひやりと冷たい刃が滑っていく心地がした。
「おまえと共に悪魔に騙され、楽園を失った時に私は誓った。二度と騙されるものか、許してなるものかと。これ以上、思い通りにはさせてはならない。イブよ、潜む悪魔に心当たりはないか? 悪魔はおまえの本来の能力を弱め、苦しめることが目的だ。身の回りに、そのような存在がいるのではないか?」
「えっ、ええと」
別人のような顔つきといっそう低い声にのまれ、智樹の脳が答えを見つけようと勝手に記憶を照合する。小学生の頃、智樹の消しごむを定規で切ってぼろぼろにした同じクラスの女の子。朝、来る時に乗った電車で足を踏んできた、あの目つきの悪いジャージの男。
やがてふっと母の顔が浮かんだ時、智樹は自己嫌悪のあまり呼吸が詰まった。
女手一つで自分を大事に育ててくれた母を、悪魔の候補に考えつくなんてどうかしている。智樹のことを、常に一番に考えてくれるような人だ。けれど同時に、否定しきれないという思いもわずかにあった。それは芽を出すたび母に摘み取られてきた、智樹のこれまでの疑心や反抗心だ。
「……進路とか、毎日着る服とか。自分で決めてないのって、おかしいですか」
母でも自分でもない、第三者の考えを聞きたくて、俯いたまま誰にともなく尋ねる。勝手に小さくなってしまった智樹の声を聞き取れたのは、隣に座るアダムだけだった。首を傾げるマルクスとオーギュストを横目に、ひとつ瞬きをしたアダムは「いや」とかぶりを振る。
「それ自体はおかしいことではない。だが、自分で決めたいとおまえが思っているのならば、おかしいと言えるだろう。決めたければ、自分で決めるべきだ」
かっと顔と喉が熱くなるのを感じた。インターネットで繋がっただけの相手へ、友達さえ知らないような家庭事情を話した恥ずかしさ。そしてこれは、アダムの言葉を聞くまで、押し込めていた自らの心に気が付けなかった情けなさだ。本当は、ずっと自分で決めたかった。ランドセルの色も習い事も、志望高校も、テスト期間中にゲームで遊ぶかどうかも。
「どうやら見当がついたようだな、イブよ。絆される前に正体を見極めろ。おまえを苦しめるものがいるなら、それが悪魔だ。おまえを閉じ込めるものがあるなら、それは悪魔の根城だ。いつか必ず私が、おまえをそこから救い出す。再び出会えた今世こそ、おまえを助けたい」
アダムの手のひらが、智樹の背の真ん中あたりを軽く叩く。智樹はその手の大きさで、アダムたちが大人なのだということを改めて実感した気がした。希薄でいてどこか身近な、インターネットで出会った人間だからか。それとも、彼らいわく魂の繋がりがあるからか。互いに何も知らないはずなのに、肩の荷をあずけてしまいたくなる気安さがすぐそこにあった。
「さあ皆、もう一度祈りを捧げてみよう。うまくいってもいかなくとも、今回はそれで解散だ。いいな」
テーブルの上で、智樹たちはもう一度輪を作る。アダムから智樹、智樹からマルクス。マルクスからオーギュスト、オーギュストからアダムへ。智樹は少し迷って、次は目を閉じないことに決めた。元から目を閉じていたのは自分だけだったらしく、口を閉ざした四人は静寂の中でじっと見つめ合うことになった。
騒がしい日常の中から、切り取られて浮かび上がった一部分の沈黙。他人の顔から他人の顔へ、互いに視線が移ろっていく。十秒、三十秒、一分。右手にある熱と左手にある熱。一分三十秒、一分五十九秒、二分。ぱちりとかすかな音がして、店内の照明が突然落ちた。
「うわっ」
「きゃあ、えっ、うそでしょ」
「アダム様! これはっ」
周囲に座っていた客たちが、一瞬驚きにざわめいた。曇り空でも昼下がりはそれなりに明るく、窓際の席は完全な暗闇に包まれてしまうことはない。薄暗がりの中で、智樹たちは呆然と顔を見合わせる。
声を上げた智樹とマルクス、オーギュストの三人は、反射的に手を離してしまっていた。それほどに、言い表しがたくぞっとしたのだ。望んだものを手に入れたようで、取り返しのつかないことをしたような気分。高揚と少しの恐怖に固まった互いの顔が、奇跡を見た、と言っていた。
「まさか、こんなことが起こるとは。イブ……やはり、おまえは本当に」
アダムはただ目を見開いて、横に座る智樹をじっと凝視している。違うとも、違わないとも言えなかった。何を言えばいいのか、智樹はもう分からなくなっていたのだ。耳鳴りで遠くなった周囲の喧騒に混ざって、どこかのテーブルで客の誕生日を祝う店員の歌声が聞こえていた。
ファミレスを出ると、来た時よりも曇り空が重く濃くなっていた。そのうち雨が降りだすかもしれない。母の言いつけを忘れて、傘を持ってこなかったことを少し後悔しながら空を見上げる。
「見たところ、イブはまだ学生のようだな。今日は何時までに帰宅する予定だ?」
「まあ、十九時くらいです。母にはそう言って来てます」
衝撃が冷めやらぬまま、奇妙な会合はお開きとなった。また来月、と言って手を振ったマルクスを見るに、彼らはどうやら月ごとに集まっているらしい。マルクスとオーギュストの背中が忙しない雑踏へ紛れ、大きな交差点の前にはアダムと智樹が残った。駅まで送るというアダムの申し出に甘えて、少し早足の彼の背中を追うように歩く。
もうこれきりにしよう、と智樹は改めて思っていた。帰宅したらすぐに、『イブ』のツイッターアカウントを消して日常に戻ろうと決める。アダムたちとの交流が不愉快だったわけではない。むしろ逆だからこそ危険だった。
「塾で自習するって、初めて母に嘘ついたんです。そうじゃないと、こんなこと絶対に許してもらえないから」
「それは良い傾向だ。記憶を奪われていても、おまえの中のイブの魂は悪魔に気がつき拒絶している。私たちが助けに行くまで抗い続けなさい。悪魔の言葉を信じてはいけない」
必要ないはずなのに、イブではなく智樹の話をしてしまう。母を悪く見せるように意識してアダムに言ってしまう。やめなければと思っても、真剣に話を聞くアダムを見ると抑えがきかなくなった。まるで母の正体が悪魔であることを望んでいるかのようだ。ここにいない母への申し訳なさすら、アダムに頷かれるたびに少しずつ薄まっていった。
このまま彼らに関われば自分は、イブの魂や悪魔だとかの存在をいつか本当に信じてしまうだろう。ファミレスで『奇跡』を共有したあの瞬間、のまれる、という直感的な確信が智樹の体に走ったのだ。他人に思想を作り変えられる感覚は、それこそ奇跡よりずっと恐ろしいものだった。
「皆さんは、このあたりに住んでいるんですか?」
「あの二人がどうだかは知らないが、私はすぐそこのネットカフェで寝起きしている。その前は少し遠くのカプセルホテルにいたな。悪魔の追跡から逃れるために、定期的に拠点を変えているのだ」
交差点を渡り、人波を分けながら大通りに沿って歩く。くすんだ赤色のタータンチェックシャツの背中は、どこまでもただの人間だ。降りそうだな、と空を見上げて呟いたアダムは、屋根つきの建物がある道を選んで通るようになった。
「予報を見ずに出てきてしまってな。傘がないのだ。降られると困る」
「俺も、傘がいるって言われてたのに忘れちゃって。いつも母が予報を見て、そういうのを教えてくれるんですけど」
「まったく、悪魔に身を委ねるなというのに。その素直さが、昔からおまえの美点ではあるが」
アダムが立ち止まる。そこは細い路地だった。味気ない色をしたビルやアパートの裏面と、鉄骨で組まれた立体駐車場が並ぶ灰色の道。人はすぐ向こうにある駅や歓楽街へ向かうので、あたりの空気は冷たく閑散としていた。
「そう、おまえは本当に変わらない。どれほど姿が変わろうと、その純真さは楽園にいた頃のままだ。だから騙されやすい。蛇の姿をした悪魔にも、私にも」
「え?」
振り向いたアダムの顔は、激しい憎しみの感情で満ちていた。再び、心臓の表面を氷塊で撫でられたような悪寒が走る。つい先ほど、智樹はまったく同じ表情を見たはずだ。ファミレスの店内で、アダムが自らを騙した悪魔について語った時に。
「禁断の果実を食べて神の怒りを買い、楽園を失った時に私は思った。先に騙されてあの実を食べたおまえが、俺をそそのかさなければ。おまえの愚かさに巻き込まれなければ私は、私だけでも楽園にいられた。ああ、イブ、今の今まで耐えていたよ。憎しみや殺意を込めて、その名を呼んでしまわないように!」
とうに成長を終えた大人の体が、大股で歩き距離を詰めるのは一瞬だった。左腕をぐっと掴まれて、近くにあった灰色のビル壁へ体を強く叩きつけられる。ごん、と重いものを落とすような音が、自分の頭から発せられたことにぞっとした。全身の痛みに声も出ない智樹を覗き込み、アダムは「やっと出会えたな」と感慨深げに声を震わせる。
「私ひとりなら、蛇の言葉に耳など貸さなかっただろう。いつまでも神の言いつけを守り、あの楽園にいられただろうさ。輪廻転生などに翻弄されぬ永遠の命だってあった。イブ、愛するおまえが勧めたから私は食べたのだ。だというのに」
「う、うう、アダム」
「何千年もの間ずっと、私は怒っていた。おまえへの友人のような、隣人のような、恋人のような愛などすでにない。私とのことを思い出すどころか、おまえは現世でもこうして、何も知らぬまま簡単に騙されようとしているな」
うっすらと髭の生えた口が、許せない、と音を伴わずにすぐ横で動いた。獣じみてぎらつく血走った両目が、視線だけで智樹の心臓を殴り拍動を早める。無造作に左腕を離され、主導権をなくした体はがらくたのように崩れ落ちた。なぜこんなことになっているのか、アダムが何を言っているのか、脳がうまく処理できない。自分の荒い呼吸音で、智樹の世界はとっくにいっぱいだった。
「おまえなど、いなければよかったのだろうな。いつだって私から何かを奪ってばかりのおまえなど。私の肋骨を使って生まれておいて、私を楽園から引き摺り下ろすなど汚辱も甚だしい。私に出会わない六百年は楽しかったか?」
人違いだ、本当の『イブ』ではない、と叫んだところで聞かないだろう。ビル壁にもたれて地面に座り込む体勢になった智樹の上に、アダムは飛びかかって馬乗りになった。視界いっぱいに広がるアダムの顔の向こうに、鈍くよどんだ色の空が見える。ぽつり、と額に水滴が落ちた。雨が降り出したのだ。
「楽園を追われてからずっと、私の腹の底は燃え盛るようだった。おまえの愚かさが許せない、苛立って仕方ない。このような醜い感情があるのも、おまえが勧めた果実を食べたせいだというのに。くそ、くそ!」
智樹の胸ぐらを掴んだアダムが、裏返った声で叫びを上げながら拳を振り上げる。打ち据えられれば骨が折れそうな躊躇のない一撃は、しかし寸前で止まった。反射的に瞑った目をこわごわと開けると、アダムはひらめいたというような顔で「ああ、そうか」と低く呟いた。憎悪に塗りつぶされた瞳のまま、口の両端ばかりがわずかにつり上がる。ぱらぱらと雨足が強まり、智樹が座り込むアスファルトの地面にまだら模様を描いた。
「ならばこうしよう、イブ。私に肋骨を返せ。おまえのような愚かな魂には、輪廻転生など不毛なだけだ。今ここでただの骨に還り、存在ごとかき消えるがいい」
つとめて穏やかな声色で、アダムが智樹に語りかけてくる。水分の足りない骨張った指先が、智樹のあばらのあたりを苦しくなるほど強く圧した。
「ほら、返してくれ。互いにそれで手を打とうではないか。私だって、もうこんなしがらみは断ち切ってしまいたい。憎むことにも疲れてきたのだ」
「い、たいです、アダム。痛い、ううう」
「喧しい。さあ返せ、イブ。今ここで骨に戻れ。今世こそ、おまえを光の中へかえしてやる。私にそれを返せ。返せ、俺に返せ、今すぐ!」
服越しに、アダムの親指がぐうっと智樹のあばらへ沈み込む。やがて並外れた圧力が骨の奥の臓器に触れようとした時、本能が恐怖を上回った。死ぬ、という思考以外のすべてが削ぎ落とされ、濁っていた意識が澄んだ一瞬、智樹の体はばねのようにはね起きた。自分でも驚くほどのめちゃくちゃな力で、アダムを突き飛ばして立ち上がる。ビル壁と衝突したアダムの体がひどい音を立てるのを意識の外で聞きながら、リュックサックを拾うのも忘れて走り出した。
怒号を聞きつつ路地を飛び出し、駅を通り過ぎ、人にぶつかっても足は止まらない。死ぬ、だから逃げる、やけに冴えた頭にはそれ以外の何もないのだ。角をいくつも曲がった先で、不意に青いネオンサインが視界に飛び込んだ。居酒屋、カラオケ、ベトナム料理店。大通りの歓楽街に出たのだと分かった瞬間、全身から力が抜けた。
へたりこんだ膝が小さな水たまりに入って、いよいよ本降りになりそうな雨がうなだれた智樹を濡らしていく。傘をさして通りを行き交う人々が、ずぶ濡れた少年の脇を迷惑そうに歩いた。寒さだけではない切迫した意識によって、手足が震えて立てそうにない。騙された、という感情だけがずっと残っていた。
「君、大丈夫ですか。自分の名前は言えそう? 何かあったのかな」
「あ……。お、俺」
ふと肩を叩かれて顔を上げると、透明なレインコートを着た制服の警官が智樹の前にしゃがんでいた。右の二の腕あたりに、巡回中と書かれた赤い腕章がつけられている。心配と警戒の混ざった男の顔に目をやって、安堵しかけた智樹はしかしはっとした。ここで警官を頼れば、母に連絡が行ってしまう。もしもトラブルに巻き込まれたことが、内申点に響いてしまったら。どうやってこの警官をごまかそうかと、智樹の脳が回り出した。
もしもばれてしまったら、母は何を思うのだろう。智樹の身を案じるだろうか。塾へ行かなかったことを叱るだろうか。内申に傷がついたと、智樹に失望するだけなのだろうか。アダムの言う通り、母は悪魔で、自分を愛してなどいないのか。だがそう言ったアダムこそが、たった今自分を騙して。
「だっ、大丈夫です。あの、塾の帰りで、傘を忘れたから走ってただけで」
そうしたら転んでしまったんです、それだけです。口がひとりでに、人を騙して切り抜けるためのそれらしい嘘をつく。一体誰が悪魔なのか、智樹にはもうすっかり分からなくなってしまった。
執筆者
文芸学科3年 櫻糀瑚子
この作品は2022年度文芸研究II・額賀ゼミの実習で制作されました。