小説
三角形ABCにおける重心Gと辺ACにおける交点
秒針と呼吸と私のペン先の動きは重なっていて、一分の狂いもない。正座もまだまだ続けてられる。ページ半分を整然と埋め尽くす図形と数式を解答と照らし合わせる。うん、間違うはずがない。傷だらけの下敷きを真っ白なページの下に滑り込ませて角のよれた問題集を引き寄せた。
「…ねえアカネ、私もう数学は捨ててもいいと思うんだ」
私の前で真っ白なノートに突っ伏したままのヒナがくぐもった声で言う。彼女がペンを手放してから間もなく一時間が経つ。
「私文系だもん…」
「お前、中間テストも赤点だっただろ」
そう言ってヒナの隣のカケルが束になったプリントを彼女に被せる。紙束に埋もれたヒナは何事か言っていたけど、もはや聞き取れるものではなかった。
「これ、あと一週間で何とかなるか?」
問題を解く手は休めずに、それでもカケルの視線はヒナを向いていた。
「結構絶望的じゃない?」
「そうだよな」
一瞥した視線を手元に戻す。中途半端で書きかけな数式を一から追いかけて、私はペンを持ち直す。
「もういい、数学は諦める」
プリントの下から這い出てきたヒナはいそいそと数学をしまい込み、代わりと言わんばかりに古典の教科書を開いた。
「お前さ」カケルが呆れたように言った。「期末落としたら補習だぞ」
「致し方なしー」ヒナは姿勢を直し、軽く辺りを見まわした。
「アカネに教えてもらえよ」
「私はパス。カケルに教えてもらって」
「俺もパス、飽きたから英語やるかな」
「アカネ、今度スタバ奢る」
「明日までにプリントまとめる。それさえ完璧にすれば赤点はとらない、オーケー?」
「オーケー! さすが天才、愛してる」
「買収かよ…一応聞くけど俺の分は?」
「ないよ、教えてくれないじゃん」
うらやましそうなカケルにヒナは勝ち誇った笑みを向けていた。ヒナは手元を見ていないけれど、正確に文字が彼女のノートを埋めていっている。
「んーやっぱ人の家の匂いって慣れないな」
「そう?」
そういえば確かにヒナはどことなく居心地が悪そうだった。高校に入ってすぐ私が初めて声をかけたときみたいに。普段の彼女からは考えられないような遠慮がちなところがあった。
「アカネはよく来てたからな」
「初耳なんだけど、うらやましい」そう言いながらヒナのペンが露骨に止まる。
「小学生の時も中学の時とかちょくちょく来てた」
「いいなー私もアカネとカケルと幼馴染がよかった」
教科書を持ったまま、ヒナは後ろに倒れこんだ。長くて綺麗な髪がごく自然にひろがる。恐らくしびれてしまったであろう足を軽くばたつかせながら小声で何かを暗唱しているのが聞こえてくる。そういえば私もカケルの部屋に遊びに来たときはああやって寝転がって漫画を読んだりゲームをしたりした。そんな時、カケルは呆れたような、困ったような何とも言えない目で私を見ていた気がする。今日みたいに勉強会だってした。小学校も中学校もよくそうして遊んでたけど、高校に入ってからは変わった。新しい交友関係が広がったりで、多分お互いになんとなく声をかけづらくなっていた。極めつけはヒナ。カケル以外で私にできた初めての親友。私がヒナと、ヒナがカケルと仲良くなって遊ぶのも三人が基本になった。重心が二人の中心から三人の中心になった。それでも今日、久しぶりにカケルの家に誘われた。当然——三人で。軽い足のしびれを感じて座をただした私はまた数学に向き直った。
「ヒナ、危ないから起きろ」
いつの間にか出て行っていたカケルが帰ってきていた。
「ナイスタイミング、ちょっとここ教えてよ」
「わかったから起きろ」
「カケル、私がそれやるから教えてあげて」
私はトレーを受け取った。香りからして紅茶。カップを机に並べて均等になるように注ぎながら横目に二人を眺めた。私の目に映ったまじめな顔でノートを覗いて、線を引いたり丸を付けたりしている二人はどことなく現実感がない。私の「お茶、入ったよ」の声にほぼ重なった「ありがとう」が返ってくる。すぐにこちらに戻ってくる気配のない二人をぼんやり眺めながら私の紅茶に五グラムの角砂糖と、言い表せないけれども重いなにかが溶けていく。まだ熱すぎる紅茶を思い切って口に含んで私は、またペンを持った。強く握りすぎたシャーペンの先でパキリと小さな音が鳴る。
「アカネちょっといい?」
数十分経った頃、不意にカケルの声がして私は顔を上げた。
「これさ、どっち?」
「見せて」
目の痛くなるような英語の長文とノートがこちらに差し出される。カケルが指さしたノートの端にはなんの脈絡もなく書かれたもの。
「『stay』と『rest』」
「これ…」
「ねー『rest』ってどういう意味だっけ」ヒナが立てかけた教科書から身を乗り出す。
「休むとか、休憩するとかそんな感じ」私は努めて冷静に答えた。
「『stay』は?」
「とどまると——」
「宿泊する、お前英語もやばいのか?」すぐ耳元でするカケルの声に私は息を呑んだ。
「ど忘れしただけだもん」
「どうかな」なんて言いながらカケルがいつの間にか私の隣、四十五センチまで来ていた。
私の正座は崩れていた。感覚の薄い足先をいたわりながら体を支えるために左手をついた床はとんでもなく冷たかった。私はカケルを見ていた。久しぶりにちゃんと見た。私の記憶にある面影よりも大人になっていた。身長も高くなった。声だって低くなった。それでもいつか見たみたいな目で、真っすぐ私を見ていた。
「難しかった?」
答えられない私をからかうように言いながらカケルの手が私の左手に添えられる。骨ばって大きくてそれでいて優しく包み込んでくる。私の鼓動が秒針の裏拍を取り始めた。
「ヒナに聞くべきだったかな」
「考えてただけよ」
「アカネが答えられないとか私じゃ無理に決まってるじゃん」ぶっきらぼうにヒナが答える。あそこからだと私たちの手元は死角。輪郭をなぞっていたカケルの指が私の小指の爪を撫でる。熱があるときみたいに頭が働かない。
「それもそうか」
「期待されないのは、それはそれでムカつくんだけど」
「アカネに聞きたかったんだ」
「もしかしてヒナに聞くつもりもあったの?」私の声は上ずっていたかもしれない。
「いやないよ」
「即答じゃんカケルさいてー」
ヒナの視線と意識がゆっくりと彼女の手元に戻っていく。
「……『stay』」
「ホントに?」
「うん…決めた」
「あと、その問題だけどさ——」
ゆっくりとカケルの左手で握られた赤ペンが私のノートへ向かってくる。数式の上の記号に歪んだ下線が引かれていく。方程式のTに座標のO。そこまで見て、私は彼を遮った。
「オーケー。わかった」
私は携帯をポケットから取り出して時間を確認するとそのまま机の下に滑り込ませた。
「さすが」
「…どうも」
あるはずのない消しゴムのカスをノートの上から払って私は教科書たちを鞄に片づけた。
「ヒナ、そろそろ時間」
「マジ? 早すぎじゃん」
「お前一時間ぐらいグダグダしてたもんな」
「あれは数学が悪いの」
苦い顔をしながらヒナが鞄を持って立ち上がる。一拍置いて私も続いた。玄関まで見送りに来たカケルに二人で「お邪魔しました」と言って靴を履く。
「楽しかった。また誘ってよね」
「ヒナお前、今度は初めからちゃんとやれよ」
「まあ、鋭意努力する」ヒナはそう言って後ろめたそうな笑みを私たちに向けた。
「ありがとう。答え合わせは後でするから」私はヒナに見えないようにカケルに向かって小指を見せた。
「わかった」
「あと誘うならちゃんと部屋片づけておいてよ」
それだけ言って私とヒナはカケルの家を後にした。いつも通り、他愛のない話をして途中まで歩いて、わざとらしく携帯を忘れたことをヒナに言った。「アカネも意外とおっちょこちょいだね」なんて笑うヒナと別れて私はゆっくりとカケルの家に戻っていった。
執筆者
文芸学科2年 渡邉明吉
この作品は2023年度文芸研究II・額賀ゼミの実習で制作されました。