創作物

小説

サリカ

 自分に似た顔立ちの女が、表彰状を持ってこちらに笑いかけている。

『さっき表彰式終わった! 楽しかったよ。紗莉花にも見て欲しかったー』

 写真と共に送られてきたメッセージを目でなぞり、再びポケットへスマホをしまった。姉に返信をする気が今は起きない。胸の谷間に溜まりだした汗をタオルでぬぐって、未だ長い列の先を見やる。バンコクから西に六十キロ、仏塔の町ナコンパトム。家族も友人も皆日本に置いて、私はたった一人、行列へ並び体に刺青を入れようとしている。

「あ、とかげだ。かわいい」

 私の独り言じみた感想を、屋台の店主が聞き捉えたことが始まりだった。私が宿泊するナコンパトムのホテル前で、いつもサテと呼ばれる鶏の串焼きを売っている顔馴染みの男だ。カワイイ、と店主は拙く反復し、私の視線の先を辿ると強面に嬉しそうな笑みを浮かべる。サテをこちらに差し出した太く逞しい腕。その日焼けした皮膚の上を、とかげの刺青が這っていた。旅行客風情にはとても読めない古語らしき文字の羅列と、記号で単純化されたとかげは愛らしくも美術的だ。サクヤンさ、と店主は自慢げに言った。

「こいつはヤント・チンチョッ。家内安全のまじないがこもってる。サクヤンの力は本物だぜ、ただのタトゥーとは違うんだ」

 店主は自分が着ていたシャツをめくり上げ、腹や背中に刻まれたいくつものサクヤンを私に見せた。虎、象。女神。どの図柄も躍動感に満ちて勇ましい。どこか切々とした祈りを纏ったそれらに思わず目を奪われた。

「全部に違う意味がある。自分の願いや悩みに合うものを、アチャーンに入れて貰うんだ」

「アチャーンって? 私も入れて貰える?」

 店主はしばし口を閉じて私の顔をじっと見つめた。顔馴染みの客ではあっても、私がまともに話しかけたのは初めてだったから驚いたのかもしれない。少しして「サクヤンを彫れる人が、アチャーンだ」と答えてくれた。

「もし入れたいのなら、俺が腕のいいアチャーンを教えてもいいぜ」

 プリーズ、と即座に口が動いた。その声は思っていた以上の切実さを孕んでいて、言っておきながら密かに驚く。店主は初めから乞われることを分かっていたように、訳知り顔で行きつけのアチャーンの家を教えてくれた。礼を言った私に、彼は人差し指で自らの頬をとんとんと叩く。

「今度タイに来る時は、もっとましな顔して楽しんでくれよ」

 屋台を後にした私は腹ごしらえを済ませ、すぐに教わった場所へ赴いた。そして今、この長い行列に加わって数十分が経過している。十五人ほどの客がサクヤンを求めて、床に直接座り込む形で待っていた。たった一人紛れ込む異国の女がよほど珍しいのか、時折どこか値踏みするような視線が投げかけられる。

 前に座っている男が、背を丸めて小刻みに震えだした。挙動のおかしい客はこの男ばかりではない。目を閉じて微動だにしない者、何度も手を合わせて必死に祈りを捧げている者。サクヤンを入れるという行為は、彼らにとって宗教的に強く意味を持つのだろう。雰囲気にのまれ、私は身を縮めて俯いていた。

 どん、と床に重いものを落としたような音で我に返る。列からやや距離を取ったところにアチャーンと、仰向けに寝転んだ男の姿が見える。白いシャツを着て丸い眼鏡をかけた、壮年のアチャーンと私の目が合った。

「すまないが、彼を抑えていて貰えますか。痛みで体が動いてしまうようだ」

 アチャーンは私の後ろに並んでいた客にも、穏やかに同じ言葉をかけた。私は慌てて頷き二人の方へ歩み寄る。私ともう一人の客が半裸の男にのしかかると、アチャーンは男の腹に再びサクヤンを彫り始めた。先に鋭い針のついたメタルロッドが、ぶつりと皮膚を破る音が聞こえた。ぶつり、ぶつり、男の体が打ち上がった魚のように何度も大きくはねる。どっと噴き出した玉の汗で、浅黒い素肌がよく滑った。男は苦悶の表情を浮かべ、荒い呼気でひたすらに何かを唱えている。私は自分の体が震えているのか、男の体が震えているのか次第に判断がつかなくなった。血だらけの男の腹に、獰猛に牙を剥く蛇のサクヤンが描かれていく。やがて清々しい顔つきで男が体を起こす頃には、私は凄まじい施術の光景にすっかり怖気付いてしまっていた。

「では次の方。ええと、サリカ・ヤマモト」

 アチャーンは血とインクで汚れた指を拭って、私が受付で書いた記名用紙をめくった。石のように固まっていた私は、「何かお悩みは」という意外な問いに虚を突かれる。さながらカウンセリングだった。私の間抜けな顔を見て、彼は眼鏡の奥の目をすがめる。

「サクヤンは薬の処方のようなものです。本人の目標や困難を聞いて、最も相応しいサクヤンを選ぶ。正しい人の道を行きさえすれば、そのサクヤンの精霊が必ずあなたを助けます」

「その、私、ごめんなさい。そんな詳しいこともちゃんと知らずに、きっともっと軽い気持ちでここに来てしまった」

 申し訳なさを伝えたくて、必死に口と手振りで伝える。アチャーンはただ、そんなことはない、と静かに首を横に振った。

「あなたはサクヤンを求め、サクヤンもそれに応えている。何の悩みも願いもない、サクヤンが必要ない人は、ここに来ません」

 アチャーンの黒い両目が、じっと私の目を見つめる。私は彼に促されるまま自らの心の内を探った。真っ先に浮かんだのは、表彰状を持って笑う姉の顔だった。

 姉は昔から出来がよかった。勉強も運動も優秀で、学級委員や生徒会といった肩書がよく似合う人間だ。裏表のない性格で同級生や教師に好かれ、いつも人に囲まれていた。小さい頃に一緒に習い始めたピアノも、私と姉はすぐに差がついた。私が指をもたつかせてスケールを練習している間に、姉はどんどん難しい曲の楽譜を先生からもらっている。やがて馬鹿らしくなって、中学校へ上がる前に習うのをやめた。姉はそのまま才能を磨き続けて、ちょうど今日、全日本コンクールに出場していた。優勝のトロフィーを手にすることだって、メッセージを見なくとも分かりきっていたのだ。

 同じ家で同じように育っているはずなのに、必ず姉より劣っていることがいつも悲しかった。だから一度遠くへ行ってみようと決めた。妹の紗莉花ではなく、ただの紗莉花として手に入れられるものを私はずっと探していた。何度か言葉に詰まりながらそう話すと、アチャーンは少し考えて頷いた。

「ならばあなたには、探しものを見つけてくれるサクヤンを施そう」

 サクヤンを入れる場所は、右足首の内側を選んだ。メタルロッドに皮膚を突き破られた瞬間、ばちんと視界が明滅する。皮膚の神経をくまなく破壊するような動きだ。激痛に体が暴れ出す前に、物珍しさから周囲に集まっていた客たちが数人駆け寄って私を抑えた。ぶつ、ぶつり、ぶつっ。施術を受けているのは右足首の小さな範囲であるはずなのに、全身から絶え間なく脂汗が流れる。足首に新たな痛みが訪れる度に、瞼の裏が白んで何もなくなっていく。気がつけば夢でも現実でもない、奇妙な空間に立っていた。

 不意に肌を刺す刺激が止んで、私の意識はよく知る現実世界へと戻される。アチャーンは右足首へ顔を近づけ、何か呪文を唱えたのちふっと短く息を吹き込んだ。心なしか痛みが和らいだ気がして、汗をぬぐいながら目を開ける。腫れと拭いきれていない血によって少し赤らんだ右足首に、小さな鳥のサクヤンが刻まれていた。

「施術は終わりです、よく頑張った。サクヤンと共にあらんことを」

 アチャーンがそう言って私の肩を叩き、見物していた他の客たちからもまばらに拍手が起こる。痛みからか昂っている心のまま、指でくちばし部分に触れた。撫でながら、この子は、とアチャーンに訊ねる。

「タイでは有名な伝説の鳥です。金色の舌を持ち、美しくさえずって探しものを見つけてくれる。名前は、ヤント・サリカといいます」

 アチャーンは眼鏡を汚れた片手でずり下げて、「あなたと同じ名前」と初めて笑った。

「明日はバンプラという寺院で、サクヤンの大きな祭りがある。そのサリカと一緒に、あなたも行ってみるといい」

 

 

 少し遅れて到着したバンプラ寺院の敷地内は、予想以上に人でごった返していた。老若男女、体に何種類ものサクヤンを刻んだ人間たちが、中央の大きな僧侶の像に体を向けて座している。中には手足から顔まで、隙間なくサクヤンで体を埋めている現地人の姿もあった。敷地内で屋台を開いていた女性が、前の方に座ると危険だと教えてくれた。

「サクヤンの精霊が憑依して、手がつけられなくなる奴がたくさん出るんだ」

 中央に設置されたスピーカーから祈りの言葉が流れ始めると、人々は静かに首を垂れて祈りを捧げる。しかし時間が経つにつれて、様子がおかしくなる者が現れるのだ。私の前に座っていた青年は突然頭を抱えて唸り出し、勢いよく立ち上がって獣のような咆哮を上げた。四足歩行で容赦なく周囲を押しのけ、仏像の前で警備の人と揉み合うさまはまさに凶暴な虎だ。同じようにして蛇のサクヤンを持つものは地を這い、象のサクヤンを持つものは右腕を鼻に見立てて振り回しながら走った。人が出しているとは思えないような鳴き声や唸り声が混ざって、敷地内は耳をつんざく絶叫の飛び交う異空間へと変貌する。腹の底にびりびりと響く喧騒に怯みかけた時、ヤント・サリカが確かに疼いた。サリカは右足を強い力で動かして、その場に私を立ち上がらせる。瞬間、周囲に座っていた人間が一斉に私の方を見た。見つけてくれた、と思った。両腕を翼のように広げて、一歩ずつ踏みしめながら仏像の方へ歩いていく。今、私はただのサリカだ。ヤント・サリカがそれを探し当て、私に気がつかせてくれた。人波の中を羽ばたき、愛らしくも気高い小鳥に導かれるまま、私は私の美しいさえずりの一節目を唇に乗せる。

執筆者

文芸学科3年 櫻糀瑚子
この作品は2022年度文芸研究II・額賀ゼミの実習で制作されました。