小説
深緑
遠くで聞こえる電車の音で目を覚ました。手足が痺れていて、枕からは微かにシャンプーの匂いがして、背中は汗で湿っていた。
弱い瞬きを繰り返しながら、丈の合っていないカーテンの隙間で漏れる曖昧なオレンジ色をみて、今がもう夕方であることが分かった。
窓とカーテンをずっと閉めていたせいで、今日の空が何色でどんな風が吹いていたのかも知らない。そばに置いてあったペットボトルの水を一口飲むと、そのぬるい温度が僕をひどく不安にさせた。
適当な服に着替えてから、壁にかけてある古いフィルムカメラを持って家を出た。カラスの鳴き声と枯葉どうしが擦れる音、そして目の奥に染み込んでくる頼りない夕日が心地良い。しばらく歩いて人気のない線路沿いの道まで来ると、少し先に見覚えのある後ろ姿があった。
心臓の中の鳥が、痛いくらいに羽をばたつかせる。足の指にぐっと力が入る。後ろから吹くやさしい追い風が、嫌でも僕の意識を彼女に向けさせる。
僕はゆっくり歩き、アスファルトの凹凸を確かに感じながらその後ろ姿をはっきりと見た。
「久しぶり」
静かな空間に僕の声が落ちる。なぜか、知らない誰かの声に聞こえた。
彼女が振り返って、数秒間無言で見つめ合う。けれどこの沈黙は、決して気まずくも、不快でもなかった。
風に揺れる長い髪と、咲いたばかりの花を見守るような瞳を見たとき、彼女と過ごした季節の匂いがした。一緒に見た景色、分け合った感情、交わした言葉。もう遠い昔の出来事として奥底にしまっていたその日々が、断片的だけれど蘇ってくる。
彼女はふっと息を吐いて、弱々しく笑った。
「幸せになってね」
そう言って、煽られた髪を耳にかけた。長い睫毛を伏せて、穏やかな表情で。
彼女は深緑色のネイルをしていた。静寂に包まれた真夜中の森のような、濃くて深い緑。
白く澄んだ指先によく似合っていて、それが今までに見たどんな景色よりも綺麗で、僕は思わずシャッターを切った。
執筆者
文芸学科/中島雅
(文芸研究Ⅱ 上坪ゼミ・テーマ「恋心を描く」・2021)