小説
しゃぼんと五月
待ち合わせの時刻から一時間半が過ぎても、彼は来なかった。
私は公園のベンチにもたれかかり、空を見ている。時折風が吹いて、染めたての茶色い髪が頬をかすめた。
繋がらない携帯電話を膝に置いてため息をつく。首筋にふりかけた香水がほのかに香り、途端にどうしようもない虚しさに襲われた。公園に響く子供たちの笑い声や跳ねるような足音がだんだんと遠のいていき、私は、ゆっくりと顔を伏せた。
ふと、サンダルの開いた足先から覗いている爪が目に入る。昨日の夜、彼との電話を切ったあとに慌てて塗ったうすい黄緑色。足に塗るのは初めてだったから、手が震えた。ネイルが乾くまでの間、私はずっと彼のことを考えていた。
あの人の気持ちに、気づいていないわけじゃなかった。口数が減って、「またね」から「じゃあね」になって、少しの違和感はいつの間にか確かなものへと変わっていった。それでも、私は彼に縋っていた。最後の瞬間まで、諦めたくなかった。
またひとつため息が出た。気を抜くと泣いてしまいそうで、左の手首を強く掴む。もう家に帰ろう、と、顔を上げた時だった。
視界の隅に、小さなしゃぼん玉が浮かんでいた。空気の流れに沿ってゆらゆらと動き、やがて飛んでいく。綺麗な丸い形を保ったままで、空の青を透けさせるように。
ちらりと横を見ると、しゃぼん玉のストローをくわえた男の子が立っていた。目が合って、私は首をかしげる。すると男の子は両目をきゅっと細め、いたずらに微笑んでからこちらへ駆け寄って来た。
ココアのような柔らかい色の髪がしなやかに揺れる。私のすぐ隣に腰掛けた男の子は、背筋をぴんと伸ばし、それから勢いよくストローに息を吹きこんだ。
一瞬で目の前に無数の泡が溢れ、広がる。小さくて繊細だけれど、どんなに周りのしゃぼん玉とぶつかっても割れることはなかった。高く高く飛んでいくそれを見送りながら、男の子は何度も繰り返しストローを吹く。
「きれいだね」
気づくと私はそう呟いていた。重たく冷えた心には、いつの間にか温かい日差しが溶けていた。
男の子は何も言わなかった。ただ、五月の澄んだ空気のなかで揺れるいくつものしゃぼん玉だけが、二人の間をゆっくりと漂っていた。
執筆者
文芸学科/中島雅