創作物

小説

カクレクマノミ

 ある夏の日、妹が「死ぬ前に水族館に行きたい」と言った。その言葉は新色のネイル試したい、と同じくらいのテンションで放たれたので、私は妹の「死ぬ」がどれくらい真剣な度合いなのかがわからなかった。放っておいたら次の日にはふらりといなくなってしまいそうでもあり、SNSの愚痴アカウントでつぶやく「死にたい」という温度のままなのかもしれなかった。ただ、じゃあ今から行こっか、とだけ言葉を返した。

 最寄り駅から一駅の、小さな水族館に赴いてチケットを買った。館内は照明がほとんど落とされていて、隣でふらふらと歩く妹の表情すらよく見えない。

 妹はふと、小さな水槽の前で足を止めた。ぼうっと光る水槽が、ようやく妹の顔を照らし出す。吸い込まれてしまいそうなほど、アクリルガラスの奥の宇宙を見つめている。視線を追うと、橙のからだに白の縞模様が入った小さな魚たちが、イソギンチャクの間でからだをくねらせていた。確か、カクレクマノミだ。ねえ、と妹が声をかけてくる。

「お姉ちゃん、知ってる? クマノミはね、オスからメスになれるんだよ」

 あなたはいいね、私たち人間と違って。妹が、水槽を指でなぞりながら呟く。ガラス越しに撫でられて驚いたのか、それとも単なる偶然か、カクレクマノミは名前の通りそそくさとイソギンチャクの中に潜ってしまった。

「私はさ、ただ穏やかに生きたいよ。それだけ。誰になんと言われようと、自由にのびのびと、私のままで生きたい」

 私は妹の喉仏が震えるのを見つめる。本当はソプラノの声が出したいのに、テノールの音域しか響かせられない声帯。もうこれ以上、偽りたくないよ。段々と語気が弱くなる。

「まーちゃんはもう、クマノミだよ、きっと」

 妹の、真宏の顔を見ずにそう言った。小さな魚から目を離さないまま、真宏の肩がひくりと揺れる。しばらくして、ありがとう、とかすれた声が耳に届いた。

 嘘をついた罪悪感がじりじりと胸に迫って、胃液と共に出してしまいそうになる。

 真宏、このクマノミたちはなりたい姿になるんじゃなくて、種の存続のために、そうしなくちゃいけないから変わるはずなんだよ。それは真宏の願いと、百八十度違うのに。真宏はわかっているかもしれないのに、それでも橙と白の小さな魚に縋りたい思いなのに。イソギンチャクに隠れておびえている、カクレクマノミの真宏の姿が浮かぶ。

 私がさいごにできたことは、言葉そのもので傷つけるよりも残酷なことだった。

 最低なお姉ちゃんでごめんね。私はクーラーで冷え切った右腕を、何度もさすった。

執筆者

文芸学科/脇屋敷理沙子

(文芸研究上坪ゼミ・テーマ「願い」・2021)