小説
ニチャ、ヌチャ、ネチャ、
イヤホンの音量ボタンに手をかける。高音質イヤホンに買い換えた自分が憎い。
「リモート飲みしませんか」
昨夜届いた一通のメール。送り主は先日新規電話帳登録したばかりのアドレス。場の雰囲気を壊さないためだけに交換した連絡先なのにまさか再び目にする日が来るとは。しかもこんな内容。リモート飲みなんて、まだしてる人いたんだ。いや、会いたくないから対面飲みよりはましだけど。いやいや、リモート飲みなんてそんなに仲良くない2人がする物じゃ無いでしょ。たった1件のメールに思考を奪われる。
結局上手く断れず、今私はパソコンの前にいる。画面越しの彼は何を飲むわけでも、何か話をするわけでもなく、「蜂蜜」と書かれた瓶の中身をずっと練っている。ニチャ、ヌチャ、気色の悪い音がウン万とするイヤホンを通して耳に届く。ノイズキャンセリング搭載の高性能モデルは、キャンセリングして欲しい音をより鮮明に届けてくる。
「あの……」
「はい、どうしましたか」
「えっと、すみません、私、用事が出来ちゃって……」
腕の鳥肌を撫でながら謝る。彼の手元はもう止まっているはずなのに、耳の奥ではあの音が鳴っていた。もうずっと前から虫唾が全身を駆け巡っている。
「まだ始まったばかりじゃないですか。もう少し話しましょう」
そう言った彼だったが、会話をする気は無いようで、再び練りを始めるとすっかり口を閉ざしてしまった。
ニチャ、ヌチャ、ニチャ、ヌチャ。
その周期はゆっくりなのに対し、心拍数は徐々に徐々に増していく。胃の中の物がせりあがってくる気配がする。いっその事目の前で吐けばさすがにお開きにしてくれるだろうか。
理性が喉を締めた。
「ごめんなさい……体調が悪くて、やっぱり今日はもう……」
「そうですか、残念です。」
それでは、また。彼はそう言うとニチャアと口元を歪めた。「蜂蜜」の瓶の蓋を閉める。引き抜かれたマドラーから滴る琥珀色。ネチャ。
(執筆者情報)
文芸学科/本森奏音
文芸研究III(谷村順一ゼミIII・2021)「800文字で書くオノマトペ」